表現を磨く

息をするままに表現できるようになりたい。
そのために身体を変え続けたい。

脱力、動作、感情を
解剖学、動植物、彫刻、絵画などから追求しています

ロダンの彫刻「美しかりしオーミエール」を、受講している講座で知りました。
頂いた写真を見て、とても不思議だと感じました。それは、他のロダン作品(といっても、不勉強でまだ数点だけ、しかも写真でですが)を見たときはは感じなかった不思議さでした。

感覚的に表現すると、「ぐわっとこない」。どう捉えたらいいのか分からなかったのです。自分の目が像の表面を滑り、さ迷っているのが分かりました。実感を持って見られなかったともいえます。

高齢による関節可動域の制限や、それの誇張があるでしょう。何より写真だし...(早く上野行きたい)。ロダンの指示でとったポーズであろうし、彫刻として人体の実際に可能かどうかは問題ではないのだし。
などと、頭で理解しても、どうも気持ちが乗りません。見ている実感がなくスッキリしないので自分なりに考えてみました。

不思議に感じた一番の理由は、左上肢の”拠り所のなさ”です。
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写真に赤丸をつけた5箇所のどこにも、支えとしたり縋ったりしているような感じを受けません。肩には溜めを感じられますが、でもこれとは別の横からの写真を見ると肘は軽く屈曲しており、腕や肩の角度からいくと肩で支えているとも感じられず、左腕は置いているもしくは添わせているという印象です。でも、この開き角度では脇にとってかえって辛そうで中途半端に見えます。

左手を見ると、手のひらが浮いているように見えます。それとも手の下に何か突起物があって、そこに手を乗せ預けているのでしょうか。
もし前者なら、掌で受け止めない分、前腕遠位から手のMP関節にかけて力がかかりそうに思うのですがそうはなっていない印象です。肩からおりてくるはずの重さも、MP関節などにもほぼ乗っていないように見えます。
また、後者の場合ならどうかというと、そうであれば手首掌側に重さが乗りそうに思いますがそうなっているようには見えず、掌に預けるどころかむしろ逆に突起物を引く方向に力が入っているようにすら見えます。
そのため、やはり腕は支えているのではなく少し広げているだけでは、という気がしてきます。

全体として、左肩には強い表情があるけれどその行き場が見つからず、冒頭の拠り所の無さを感じます。

そこで、やはり最初の印象通り、左腕にすがってはいないと仮定してみました。そうであれば、このモデルの女性はすがっていないのではなく、そうしたくても様々な部位の可動域の制限で出来ないのでしょう。

それであれば、と思い出したのが5年前のことです。私は左の肘を傷めた後、恥ずかしながら対処を誤り、左腕と左手の筋力がほとんど無くなってしまったと言えるくらいに落ちてしまっていたのです。物を握ることも、手指を伸展させることもままならなかったです。
もしその状態に似ているのなら、心身の状態が少し想像できます。それに近いのであれば、よほど全てを受け入れることができない限り、色々な苦しい思いが渦巻いているのではないかと思うのです。5年前の自分は、そうでした。

そのことに加えて思い出したのが、講座の先生が聞かせて下さった、ロダンは「老いても美しい」という意味合いのことを言っていたというお話です。

それも合わせてみると、この彫刻が表現しているのは
この女性がこれまでの人生を戦ってきた美しさ、左腕で支えたくてもそうできないなどの制限、しかもそれが時間で解決される見込みはなく、むしろさらに程度が増していくかもしれないやるせなさ、ゆえに生まれるどうにもならない感情の渦、そして何より、それらを抱えて生きていること。それらが渾然一体となった尊い美しさかもしれないと思いました。

そうなのかもしれないと思って写真を見直すと、左上肢に対する不思議さは消え、全体が全く違って見えました。

***

さてさて、こうやって考えながらこのポーズを自分の身体でマネてみていたところ、
上腕と肋骨周りに今まで見落としていたお宝(力み)を発見できました!自分にとって根が深いところにアプローチできたので演奏にもかーなーり、効いています!
オーミエールの鑑賞とは ずれるので、また別に記事にします。


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